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Hashimoto Tsutomu

橋本努ノート「雑誌『展望』セレクト論文のために」

共著『1970年転換期における『展望』を読む』の準備として

201002

 


 

■橋本が選んだ論文のリストです

No.1.最高の論文はこれ:福島新吉「国家目標の有効性」1967.3.

No.2.堀口牧子「順応者と反抗者」1972.9.

No.3.花崎皋平・武藤一羊共同執筆の論文「支配-被支配の前線」1978.8.

(以下順不同)

上山春平「明治維新論の現代的意義」1966.3.

橋川文三「現代知識人の条件」1967.4.

武藤一羊「後戦後期への移行」1967.9

降旗節雄「疎外と人間解放の論理 大塚久雄『社会科学の方法』への疑問」1968.3

酒井角三郎「インフレ文明とマラソン社会」1968.5.

酒井角三郎「学生反逆における生活への志向」1969.1.

磯田光一「文学的戦後の次に来るもの」1969.9.

桶谷秀昭「権力の思想と個人の思想」1970.11.

井上俊「「あそび」としてのニヒリズム」1971.4.

加藤周一「「追いつき」過程の構造について」1971.9.

栗原彬「日本人の国際感覚」1971.9.

田中義久「私的生活の構造」1972.4.

鶴見俊輔「リンチの思想」1972.5.

安永寿延「余暇の思想」1972.7.

寺井美奈子「預かり人の思想」1973.2.

山口昌男「道化的世界」1973.5.

水尾比呂志「手仕事について」1973.9.

正村公宏「現代企業の社会的位置」1974.2.

宇井純「住民運動として自立へ」1974.11.

富永茂樹「都市という病理」1975.5.

D・ラミス「ドロップ・アウトその後」1975.5.

真木悠介「気流の鳴る音」1976.10.

竹内芳郎「文化の理論のために」1976.11.

熊沢誠「組織労働者の存在とエトス」1977.10.

津村喬「三里塚が突き出した政治」1978.6.

 

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以下、橋本の選んだ全リストとコメントですが、これは自分用のメモです。

 

■小林秀雄「常識について」1964.10.

 

■日高六郎「歴史の教訓と理性の立場」1964.11.再検討

■松田道雄「一市民のマルクス主義体験」1964.11.再検討

 

■三島由紀夫「現代文学の三方向」1965.1.再検討

 

■伊藤光晴「保守と革新の日本的構造」1965.2.再検討

■埴谷雄高「革命の変質」1965.2.再検討

 

■手塚富雄「「期待される人間像」を読む」1965.3.

■佐藤忠男「教科書に見る理想的人間像」1965.3.

当時の話題となった人間論。

 

■吉本隆明「自立の思想的拠点」1965.3.マルクスに基づく思想、再検討

 

■藤田省三「「論壇」における知的頽廃」1965.4.→小論、再検討

■森本和夫「セックスの形而上学」1965.4.→マルクーゼを論じた論考。

 

■小田実「文学における戦後責任」1965.5.→共産主義運動と「私的なもの」をめぐる文学が、「政治と文学(私小説)」のテーマになってきたことを総括する。

 

■高畠通敏「政治の発見」1965.6.→大衆に降りていく必要性と知識人文化の必要性の拮抗関係を描く

■塩原勉「創価学会イデオロギー」1965.6.→自発的結社の排他的で全体主義的な組織を批判的に描く。

 

■松下圭一「知的生産性の現代的課題」1965.7.→再検討。市民派の理論が「生産性」を問題にした、という点が重要。

 

■福田恒存/竹内好「現代的状況と知識人の責任」1965.9.→文部省に取り込まれない、知識人の自律した知の営みの重要性。

 

■上山春平「日本ナショナリズムの視点」1965.10.→近代化の論理、再検討。

■吉本隆明「戦後思想の荒廃」1965.10.→知識と革命の不可能性について

 

■マルクーゼ/マレ「討論 現代資本主義と労働者階級」1965.11.→マレは、現代の創造階級を予見している。

■加藤秀俊「構想力の問題」1965.12.→面白い。日本の知識人には構想力がなく、建築家が将来のことを考えている、と指摘。

 

■宮崎義一「南北問題と日本の立場」1966.1.→自由貿易のインターナショナリズムを、ナショナリズムの一つのバリエーションとして捉える立場を表明。経済ナショナリズム論はこのころからすぐれて知的・論理的な議論があった。

 

■大河内一男「大学の現状を考える」1966.1.→タイトルに惑わされてはならない。仕事論である。仕事に即して個人の能力を測るという考え方を提示。職能社会的な理想。これに対して、後に全共闘が東大学長となった大河内を批判する場合、その論理は「潜在能力のアナキズム的開花」という理想によって突き動かされていたとみることができる。

→■大河内一男「「新しい大学」の現実的背景」1967.1.→大学は経済成長の担い手を養成する場所、と主張。これに対して同号掲載の佐藤忠男「権利としての教育」は対照的。

 

■■上山春平「明治維新論の現代的意義」1966.3.→今日の思想状況のまとめがある。明治維新から、近代化のエネルギーを読み取る際、後期水戸学派における思想に導かれた、とする。この点について再検討。

 

■長洲一二「社会主義第二段階論」1966.4.→ソ連のルポ。低開発で失敗していることを伝える。マルクス主義者は、このころから社会主義の現実に醒めた目をもっていた。

 

■林健太郎「歴史・この未知なるもの」1966.5.→マルクス主義史観と、これに対立する近代化論(ロストウに代表される)。こういう構図で論じる。

■竹内好「学者の責任について」1966.6.→マルクス主義史学が、歴史の「必然」の論理を捨てたことについて指摘。

 

■内田義彦/大河内一男/川島武宜「新しい貧困」1966.6.→切迫していない。

 

■宇野弘蔵「「イデオロギーと科学」について」1966.7.→当時、『思想』でも論争が繰り広げられている。労働者の闘争に、学問的な正当化を与えることはいかにして可能か。

 

■丸山真男ほか「筆者と語る 第一回 丸山真男」1966.7.→自由と社会主義という問題に対応できていないことが分かる。

 

■小田実「平和の倫理と論理 国家原理を超えるもの」1966.8.→若者たちがナショナリズムになってきた、と批判する。

 

■梅原猛「日本文化論への批判的考察」1966.8.→鈴木大拙と和辻哲郎の場合を論じる。ナショナリズム批判の観点

 

■梅本克己「国家・民族・階級・個人」1966.10.→和辻=国家=戦争にたいして、マルクス主義=反国家=平和を対置する。

 

■ブールデ/いいだもも/鶴見俊輔「左翼の新しい状況」1966.10.→フランスではカトリックが進歩的であるという。これは左翼の中から、あらたにコミュニタリアニズムが生まれる可能性を示している。

 

■いいだもも「平和と革命の倫理と論理」1966.12.→市民的不服従と、非暴力直接行動の意義について論じる。国家の正当性がない場合に、いかなる行動が可能か、という問い。しかし国家Gないし統治機構)の正当性を構築する方法が、新たに問題になる。

 

■武田泰淳「サルトル的知識人について」1966.12.→再検討

 

■平井啓之「サルトルが提起した問題」1966.12.→再検討

 

■竹内芳郎「現代マルクス主義の実存的契機」1967.1.→疎外論から社会主義革命を展望する。サルトルの実存主義ブームと関係しているだろう。歴史法則主義史観が失効してから、実存主義によってマルクス主義が再生する。

 

■酒井角三郎「中国文化革命の革命性」1967.2.→専門家や知識人とは対照的に、大衆がもつパワーを評価する。

 

■岸田純之助ほか「合評 未来と人間をめぐる科学書」1967.2.→通俗科学書が流行している。「未来」がキーワードになっている。通俗科学によって「未来」の構想力が鼓舞されている、という当時の状況に対して、知識人は慎重な態度をとり、全共闘は無謀な未来を描く、という構図になっている。70年代になって残ったのは、通俗科学であり、あらためて科学的であることが問題化されるようになる。

 

■竹内芳郎「弁証法の復権」1967.3.→宇野派を批判して、社会主義イデオロギーの形成を目指すという野心的な企て。

 

■岡本清一「イデオロギー政党の問題性」1967.3.→公明党と共産党を問題にする。絶対的な信仰としてのイデオロギーに対して、近代の相対主義を対比させる。

 

■■■No.1.最高の論文はこれ■福島新吉「国家目標の有効性」1967.3.→闘争的民主主義の原型となる理論を提示。ムフやコノリーなどの理論を同時代で先取りしている。

 

■■橋川文三「現代知識人の条件」1967.4.→知識人に導かれて、専門人からなる官僚制を超える、という発想の不毛性について2

 

■日高六郎「現実・思想・思想者について」1967.4.→イデオロギーの終焉という言葉が流行っていることを伝える。

■鶴見俊輔/吉本隆明「どこに思想の根拠をおくか」1967.4.→国家の否定と大衆の信頼、という問題。思想の根拠としての「第三領域=大衆」。

■伊藤光晴/富永健一「社会変動と未来像の構築」1967.4.→二人ともビジョンはないが、未来社会の構想が求められていることは自覚。結局、イデオロギーの終焉で、妥協的なことしか語れなくなる。その後の新自由主義を見通すハイエクの著作は1960年に現れているのだが、日本では導入が遅れる。

 

■広津和郎「憲法施行二十年」1967.5.→生活保護費の不十分さで、物書きの妻が自殺してしまう。こういう話に、知識人は弱い。赤木智弘の場合も同様の同感を引き出した。「物書き」で食っていけるはずはないのに、そのような共感が集まるのはなぜか。

 

■安田武「戦中派・その罪責と矜持」1967.5.→戦中派が体現していた、「精神的貴族主義」が、戦後民主主義に受け継がれなかった、という。

 

■住谷一彦「長征と出エジプト」1967.5.→ウェーバー『古代ユダヤ教』の観点から、毛沢東の「立法予言」を評価する。

■置塩信雄「中国経済と文化大革命」1967.5.→マルクス主義の立場から、文化大革命を批判する。ウェーバー学者が共産主義を評価し、マルクス学者が共産主義を批判するというねじれた構図。

 

■北沢方邦「現代文化批判」1967.7.31頁の図が面白い。フォークソング批判、大衆批判。エリートによる文化の楔が重要という。

 

■酒井角三郎「知識人の世界」1967.7.→サルトル来日。政治を根底から否定する存在としての知識人。しかし本論文は、ナロードニキの源流からサルトルを批判。知識を大衆のために役立てることの意義を主張。

 

■中島嶺雄「日本知識人の中国像」1967.7.→心情的に中国に共感を寄せる左翼知識人を批判。

 

■小田実「原理としての民主主義の復権」1967.8.→「無知な民衆は黙っていろ」に対する批判。

 

■■武藤一羊「後戦後期への移行」1967.9,→平和、経済立国、過去への復権への抵抗。これら三つの「戦後民主主義」の理念が崩壊している、と論じる。これら三つは、すでに与えられたので、もはや追求すべき新鮮な理念ではなくなる。すると何が求められるのか。マルクス主義、というのが答えになる。

 

■日高普「未来ブームの中の「未来学」」1967.9.→未来学は、社会工学的な発想であり、ダメ、という批判。マルクス主義のほうが未来をダイナミックに捉えるということだ。

 

■川添登「なぜ未来を考えるのか」1967.10.→未来学研究会の発足。梅沢忠夫、加藤秀俊、小松左京、林雄二郎、川添登などが参加。未来学ブームになる。小松左京的な、あるいは星新一的な、SFの世界の到来。

■川添登「情報社会と思想の自立」1967.11.→現代は脱産業社会である、という主張について。

 

■竹内芳郎「文化大革命の思想的意義」1967.11.→確信犯的。人間の全体性の回復のために、虐殺を正当化する論理。

 

■磯崎新「見えない都市に挑む」1967.11.→すばらしい感性。

 

■笠原芳光「戦後青年論 青年はどう権威に挑戦してきたか」1967.12.1955年以降、「自由の時代」=戦後派の時代とする。開高健、大江、江藤、小田。ところが1960年代になると、前の世代を継承しない「青年の無思想化」が生じた、という。なんだか現代の青年を論じているようだ。本稿は、1960年代を「多元化の時代」と呼んでいる。

 

■杉捷夫「一九六八年の夢」1968.1.→マイホーム主義と政治運動のジレンマを描く。

 

■浅田光輝「七〇年統一戦線の可能性 全学連ラディカリズムの問題性」1968.2.→学生運動批判。主体主義では、分裂してしまう。これに対して、スターリン主義、客観主義を擁護する。学生運動の敗北は、疎外論=実存主義の解決を失効させた。代わって再び、体制としての社会主義が理想化される。廣松渉の物象化論は、こうした学生運動の失効を克服するものとして現れたといえる。

 

■合評「マルクス主義の新しい展望」1968.2.→この記事は大したことはないが、取り上げられている本が時代を代表する。コルシュ『カール・マルクス』、竹内良知編『疎外される人間』、梅本克己『唯物史観と現代』、竹内芳郎『イデオロギーの復興』。

 

■■降旗節雄「疎外と人間解放の論理 大塚久雄『社会科学の方法』への疑問」1968.3.→大塚久雄は、階級一般からの人間の解放をマルクスから学んでいない、と批判する。人間性の全面開花としての「ポスト近代」を展望する降旗。これに対して大塚は近代主義を代表する、という構図になっている。

 

■石田郁夫「佐世保市民と全学連」1968.3.→佐世保の市民が学生運動に共鳴して参加するという、大衆動員モデルの理想的な運動となっている。こうした運動によって社会を変革していくことが理想であったといえる。

 

■ルフェーブル「マルクスにおける「構造」の概念」1968.4.→構造主義を批判して、構造化された社会を革命するための思考力、すなわち弁証法の意義を訴える。

 

■松尾ちよ子「展望・学生に言いたいこと 甘えすぎる」1968.5.→学生という身分に甘えている。甘えずに近代人としての学生になってほしいと主張する。

 

■■酒井角三郎「インフレ文明とマラソン社会」1968.5.→大量消費と大量破壊、忙しさとインフレにせかされる。するとマラソンの後ろの方を走る人たちが問題。当時の時間感覚の焦燥感を描く。

 

■竹内成明「吉本隆明と小田実」1968.5.→敗戦・戦時中の経験→裸の自分→大衆と密着、大衆を自分のうちに見出す→「体験的思想」を語るというアプローチ。

 

■上山春平「明治維新の革命性」1968.6.→精神的エネルギーの無限の可能性の発見。中江兆民は、孟子の「活然之気」を革命的行動の原動力である「自由」(リベルテ・モラル)の源泉とした。この孟子の考え方は、後期水戸学派に継承され、明治維新を導いた。日本における自由主義思想のオリジナルな形態がここにある。

 

■なお1968.6.以降、筑摩書房から『戦後日本思想の体系』全16巻が刊行されはじめる。日本の名著、世界の名著も、このころ刊行され、思想ブームになっている。

 

■宮本光雄「現代日本の政治神話」1968.7.→三つの神話、すなわち天皇制、合意型政治、高度経済成長、を指摘する。

 

■住谷一彦「思想史としての現代」1968.9.→ウェーバーで毛沢東を評価する。前にも類似の論文あり。

■住谷一彦「学生反乱の思想的礎柱」1969.4.→ハイデルベルクから書いている。ここでは、近代化の徹底として、自律、力なき権威、公開、という三つの価値理念を提示している。

■清水慎三「革新エネルギーと既成左翼」1968.9.→セクト主義(ゼクテ)の可能性。再検討。

 

■津田道夫「思想としてのチェコ問題」1968.10.→スターリン主義からの自由。そのためにインターナショナリズムによる解決を求める。ネグリ=ハートでは、一国福祉主義からの解放としてインターナショナルな自由が求められるが、その問題関心の出発点がこの時期

 

■平田清明「マルクスにおける経済と宗教」1968.11.→近代人=市民の原点は、主体性+私有財産。オートメーションに抗して、疎外の克服による人間性の回復が求められる。市民と人間性の理念は、キリスト教的包摂と貨幣物神の両方を克服するものとして掲げられる。人間性を回復して、近代化を徹底させる、という考え方。

 

■梅本克己「革命的支援の論理」1968.11.→チェコ問題において、マルクス主義が問われている。左翼は、チェコを独立した国家として認めるのではなく、「国家死滅」を理想としなければならない、という。これがチェコを支援する立場だという。

 

■佐々木幹郎「擦過してゆく群青の馬」1969.1.→学生として発言している。

■北村孝一「アナーキーへの志向」1969.1.

■■酒井角三郎「学生反逆における生活への志向」1969.1.→反体制派の大学が出来ることが理想であると主張する。

■リクール「大学における改革と革命」1969.1.→これも、新しい大学モデルをオルタナティヴとして求めるもの。非学科的で、平行的な関係の教育。ポスト産業社会の理論は、このような大学改革の理念から始まった、という認識が重要。

 

■マルクーゼ「文化の再定義に関する考察」1969.3.→科学と非科学の再融合に向けて。すばらしい論考。

 

XYZ「鼎談時評 セックス論がはやる時代」1969.3.→家族制度と資本主義を維持する保守に対する反動として。

 

■「展望・教育論異説」1969.4.→さまざまな人が、オルタナティヴの教育実践について論じている。この企画は、先の酒井とリクールの問題意識に対応したものといえる。

 

■竹内芳郎「大学闘争をどう受けとめるか」1969.5.→すばらしい。竹内自身、自己否定の告白をする。結論として、日常を「異化」する効果が運動の狙い、と主張する。絶えずずらしていくという方法の提示。非日常性がもつ遠心力の機能。

■北沢方邦「管理社会と革命」1969.5.→管理社会を革命によって否定することはできない。新しい前衛の役割は、文化的・知的なものでなければならないとする。→先進国における革命は、後の創造階級を準備するものに転換されていく。

 

■大木英夫/平田清明「対談 現代における変革と終末論」1969.6.→平田は、アソシエーションの概念を示す。これに大木は、キリスト者の立場から賛成する。ここに市民コミュニタリアンというモデルの誕生を読むことができる。

 

■長崎浩「欺瞞的で自由なゲリラ」1969.7.→運動家の自己批判。すばらしい。なぜ政治運動が欺瞞的なのかについて、解明している。そもそも政治によって解決できない問題を、若者たちは抱えていた。

 

■真木悠介「解放の主体的根拠」1969.8.→ベトナム戦争やインドの飢餓を状況として把握することが、主体をかけた実践の根拠となるという。なぜそうなるのか。この論理が分からないが、時代として、個別の国家共同体を超えて、「世界」に共鳴することが、主体化の普遍的な文脈を与えた、といえる。実存が問われる一つの世界。

 

■小田実「ふたたび、人間について」1969.9.→デモで見知らぬ女性とスキンシップするという体験。役割を離れて反体制で肉感的につながりあうという、祝祭的な空間。

 

■XYZ「鼎談時評 日常性批判は有効か」1969.9.→だんだん革命が無効になってきた。

 

■■磯田光一「文学的戦後の次に来るもの」1969.9.→人間は完全な解放に耐えられるのか。そうではない。サド、悪魔の問題を指摘する。真木悠介的な解放の理論には、悪魔がない。疎外された日常性から解放されると、人間はピュアになれるのかといえば、むしろ逸脱的なものが現れるのではないか。疎外された日常と純粋な非日常の対比ではなく、正常と異常の対比になる。70年代の図式を先取り。

 

■武藤一羊「戦後型政治支配の転換」1969.10.→ここらへんから論理が怪しくなってくる。帝国主義との対決。勢力を批判する力としての左翼運動というわけだが。

 

■座談会「人間にとって豊かさとは何か」1969.10.→高度成長のメカニズムは何を奪ったのか。新しい貧困として、@物価上昇、A公害、B住宅難、C交通難、を指摘する。これに対して、産業界の未来学に期待が寄せられる。

 

■真木悠介「人間的欲求の理論」1969.11.→近代主体を理想とする。対自的欲求は、何かを「選択」するものとされる。欲求の反省的選択という自律の理想。

 

■折原浩「闘いの秋を迎えて」1969.11.→東大教養学部での討論会への報告。記念碑的。

 

■久野収/田中慎次郎「対談 非武装の構想」1970.1.→国際世論に訴える必要性。第三領域からの平和論。

 

■中岡哲郎「生産点の思想」1970.2.→街頭デモのエネルギーを生産性に結びつける論理。

 

■北村日出夫「同志社「自由大学」の構想」1970.2.次のなだいなだの論文とあわせて、時代を映す自由論になっている。反権威オルタナティヴの大学という実践が、権威主義を批判する現場になる。また、若者のための大衆音楽による一体感の経験が、反権威としての自由を謳歌するための拠点となる。

■なだいなだ「ビートルズは自由にする」1970.2.

 

■対談「ユートピアと現代批判」1970.4.→対談そのものは面白くないが、編集部の問題提起がいい。「人はユートピアに何を託してきたのか。夢破れた今日、果たしてそれは構想可能だろうか。」まさにこの問いが切実なものとしてあったのだろう。

 

■XYZ「鼎談時評 情勢論」1970.4.→生産力は欲望を掻き立てる。そのような体制から自由になることが必要、という。これは「ロスト近代」の理念。欲望を掻き立てられない社会の理想。

 

■松下圭一「シビル・ミニマムの思想」1970.5.→各自治体の自治に期待する。中世都市としての自治という左派の理想。

 

■赤羽裕/平田清明/山之内靖「マルクス再検討・市民社会と人間」1970.5.→平田は、プロテスタント的な個の確立を主張。対して山之内は、社会主義的所有を肯定、あわせてゼクテの意義を強調する。この対談では、マルクスをベースに個人主義の立場をとる平田と、共同体を評価するウェーバー主義というねじれ現象がみられる。

 

■北沢方邦「現代冬物語」1970.5.→すばらしい。「問いによる解放」というドゥルーズのテーマ。

 

■宮田光雄「非武装国民抵抗の思想」1970.6.→市民的防衛の論理。真の民主主義の統治こそ平和をもたらすというこの考え方は間違っていない。ただ、純粋な心情倫理から体制全体を変革するというアプローチであり、そのために非武装平和の国際世論運動を盛り上げる、という戦略になっている。

 

■真木悠介「未来構想の理論」1970.6.→共同的な計画による社会的未来の創造を展望する。だいたい、左翼の構想力は、こういう生活協同組合的な発想に落ち着いていく。

 

■大きな特集・人間回復を目指す言語1970.9.→支配体制に組み込まれずに、しかも理性的な言語を語ることの難しさ。しかしそれを展望の編集者は求めている、そういう特集になっている。

■中村雄二郎「コミュニティへ向かう言語」および■森本和夫「権力の言語と沈黙の意味」が、北大図書館に欠落している。→筑摩書房にコピーを依頼すること。

 

■佐藤忠男「生活と革命のあいだ」1970.8.→新左翼を応援する。自由とは、あらゆる差別の撤廃とみなされる。レベラー(水平主義)は、差別からの解放をもたらす。正常(包摂)/異常(排除)の二分法の解体。

 

■尾上久雄「経済計画と「参加」の思想」1970.10.→混合経済を上から進めるか、下からの参加の意義を認めるか。結局、左翼の革命は、この問題に行き着く。しかし論じてしまえば、みもふたもない、あまり理想的ではない話になり、冷めてしまう。

 

■鶴見俊輔「方法としてのアナーキズム」1970.11.→抵抗と自主管理の理想。

■大沢正道「反国家の理性」1970.11.1930年代のアナキストが、国家を賛美するに至るプロセスを紹介する。ロマン主義ではダメで、理性による国家批判がないといけない、ということ。

 

■金井美恵子「性・映像・言葉」1970.11.→セックスが自由にされる時代の不自由について。

 

■■桶谷秀昭「権力の思想と個人の思想」1970.11.→いっさいの権力から自律するためには、@自己権力=主体化か、あるいは、A根源的な自然へ自分を回帰させるか、いずれかであるという。このAがエコロジー運動の理念となる。ロスト近代。

 

■吉本隆明「南島論」1970.12.→構造主義の理論を自前の研究で遂げた、恐るべき論考。

 

■小田実「「生きつづける」ということ」1971.1.→大衆が、労働者としてではなく、会社員として生きるようになってきた、と指摘する。

 

■宇井純「滅びへの道に何をなすか」1971.1.→公害問題は、差別こそが根本的な構造だという。当事者の被害者から出発しないと分からない、という。正常/異常(排除)という図式で問題を捉える。新左翼の図式。

 

■井上俊「若ものたちの反エタティスム」1971.1.→時代を読む。若者たちの「内在」傾向など。その背後には、国家学によって要請すべき大学生を、大幅に超える大学生の増大に、いかに対応するか、という問題もある。

 

■真木悠介「コミューンと最適社会」1971.2.→異質な他者と溶解するのではなく、弁証法的に豊饒化する関係を展望する。諸々のユートピアを含んだ、メタ・ユートピアというのージック的な理想を展望している。

 

■三橋修「差別社会の中で」1971.2.→革命運動の失効から、差別撤廃運動へ向かう。体制を超えようとする人間は、そもそもマージナルな人間である。そのような人間が、同じく排除され差別された人間を救済する方向。

 

■特集「ニヒリズムと現代」1971.4.→この時点でニヒリズムが蔓延している。

■多田道太郎「管理社会の影」1971.4.→小松左京の小説を紹介しながら自由論を展開している。未来構想としての小松的SF小説が、管理社会からの自由の構想力を提供した、という点が面白い。

 

■安永寿延「現代の虚無と生」1971.4.→フーリエ的な労働の快楽に希望を見出している。エロス的文明のポスト近代を展望する経済思想として注目すべき。

 

■■井上俊「「あそび」としてのニヒリズム」1971.4.→ポストモダンの原型となる論文。真正に対する擬似、純粋に対するあいまい、本物にたいするにせもの。これらがポジティヴに機能する社会を展望する。

■黒井千次/見田宗介「市民たちの空虚な思い」1971.4.→ニヒリズムは思想から距離を置いている。思想は、人を孤立させ、憎悪の感情を生む。管理社会に対抗する理念として、豊かさ、あそび、エロス、余暇、というものが対置される。

■鮎川信夫「遊びによる自由」1971.4.→小論だが、時代を映す名文。社会の駆動因を、勤労ではなく遊びに求める。人間を管理しないほうが、自由にエネルギッシュに活動するはず、という信念がある。そのエネルギーは、ポスト近代においては遊びの快楽に求められていくのだが、現代ではこれが失効する。総背番号制といった管理に対する抵抗がなくなっている。ロスト近代。

 

■久野収「強権の思想のなかで」1971.6.→国家管理に対して、国民が抵抗する拠点は、「自治」ゼクテであり、自己統治の理想から民主主義を考える、という方向性。第三領域こそ国民総抵抗の基盤となると期待する論理。

■折原浩「裁判所における東大闘争」1971.6.→こういう闘争をしたことが尊敬に値する。

 

■竹内芳郎「言語・その解体と創造」1971.7.→文化革命の課題に答える言語論を構築する、という野心的なテーマ。総じて左派知識人は、言語論的転回を遂げていくが、竹内はその代表的人物。以下、このテーマの論文が毎月連載される。11月号に最後のまとめがある。現実において革命できなくても、言語のレベルで革命を遂行できるということ。これがポスト近代における記号消費能力を洗練させていくことに資する。

 

■最首悟「私に巣食う贋作者」1971.8.→自己批判。自分がぬくぬくと東大で助手をしていることへの自己否定。

 

■■加藤周一「「追いつき」過程の構造について」1971.9.→当時の日本は、第一次大戦後のドイツに似ている、と指摘する。私小説が成り立たず、非合理性は崇高化される。論評として鋭い指摘がたくさん。

■■栗原彬「日本人の国際感覚」1971.9.→観察力のある論文。ふるさと-故郷から日本国家を構成するナショナリズムと、国家を普遍主義の装置と考えて地方分権とナショナリズムの否定を展望する立場の対立。

 

■大島渚「貧困の性」1971.10.→若者の性文化を批判する。これこそ保守主義の源流ではないか。

 

1971.11.の特集「暴力と世論のあいだ」では、三里塚運動と国家の暴力が対比されている。

 

■中岡哲郎「社会主義にとって管理とは何か」1971.12.→すばらしい。スターリンの立場を否定して、社会主義における労働の幻想を否定する。

 

■吉田静一「批判と構想力」1972.2.→サン・シモンとシスモンディを比較する。ラディカルな批判から構想力へ。結局、空想的社会主義のような構想力が必要とされているのだが、科学的マルクス主義の台頭のせいで、思想的に日本では同様のものが現れないことになる。

 

■竹内芳郎「政治的選択と〈客観的可能性〉」1972.2.→ナロードニキの問題。平田清明に応えるというこの論争が、とても面白い。

 

■石牟礼道子「天の魚」1972.3.以降連載→水俣病の現実をなまなましく描く。

 

■市井三郎/作田啓一/真木悠介「人間の未来を問う」1972.3.→編集者の問題設定として、ユートピアの構想がほしい、そしてその構想こそ争われるべきなのだが、それがない。

 

 

■この時期の問題として、革命の失効から、@言語論による代理革命、A差別論による排除批判と普遍的制度の展望、Bアソシエーション的・市民的コミュニタリアニズム、Cアナキズム(反管理社会)、D平和論(第三領域=生活世界の紐帯)、E遊び論、いずれも、「覚醒」のモチーフを継承する。

 

■■田中義久「私的生活の構造」1972.4.→日常性を取り戻すなかで自己表現をしようという主張。社会学的に分析力がある。

 

■■鶴見俊輔「リンチの思想」1972.5.→歴史的に分析。日常性がないとダメ。チェコとマンガが反スターリンの実践たりうる。

 

■内田芳明「歴史変革の思想と現代」1972.5.→中国革命は「辺境」における企てであって、「周辺」からの企てではない。では「周辺」たる日本は、いかなる革命の展望が拓けるのか。それが解明されない。

内田は、アメリカの神学者、コックスを大々的に論じているが、コックスは、山口昌男の議論の最大のネタでもある。コックスが重要人物。

 

■近藤完一「新全総-開発ファシズム」1972.6.→開発主義国家が問題になっている。資本主義批判でも自由主義批判でもない。

 

■竹内芳郎「民主主義の将来」1972.7.→戦後民主主義ではなく、三里塚の闘争のような、反国家の民主主義を展望する。

 

■前田俊彦「権利と権力」1972.7.→リソースとしての権利をすべての人に与えるというリベラリズムの構想へ。

 

■■安永寿延「余暇の思想」1972.7.→江戸時代、マルクス、などを論じつつ、後の山崎正和的な柔らかい個人主義へとつながる思想の原型がある。

 

■■■堀口牧子「順応者と反抗者」1972.9.→すばらしい論文。時代の矛盾をよく思索している。

 

■井上俊「怠けと自由」1972.9.→ポル・ラファルグ『怠ける権利』をめぐる考察

 

■折原浩「学園闘争以後の知識人状況によせて」1972.12.→中央公論社との闘い

 

■高畠通敏「社会科学の転回」1973.1.→エリート支配と民衆の対立。社会科学には、文明の終末状況を救う力がない、とする。「民衆による問題解決」のための知識が必要という関心。

 

■小泉貞彦「「開発植民地主義」のゆくえ」1973.1.→青森とアメリカのインディアンに共通するものとして、伝統回帰があり、健康と共同性の回復を展望する契機となっている。

 

■■寺井美奈子「預かり人の思想」1973.2.→名文である。所有意識を止揚すべしという主張。インディアン、自然に学ぶ。支配意識を捨てて自然へ、という考え方。

 

■武藤一羊「田中政権の特質と日本の進路」1973.3.→資本主義は開発主義である。共産主義も、開発主義であり、その批判の射程に入っている。帝国主義から脱却するという関心。設計主義批判はラディカルな左派から生まれたということに注目。

 

■■山口昌男「道化的世界」1973.5.→重要。ポストモダンの論理。遊戯、無意識、カオス、境界、多様性、という理念の提示。山口はここで、ハーヴェー・コックスというアメリカの神学者の道化論をベースに議論を肉付けしている。『愚者の饗宴』(邦訳あり)を参照のこと。なお内田芳明もまた、当時、コックスに基づいて議論を展開し、そこにウェーバーの可能性を重ねている。

 

■見田宗介「まなざしの地獄」1973.5.→永山則夫論として秀逸な論考。

 

■田中義久「岐路にある〈私〉状況」1973.6.→長大な論文。ブルジョアの私権と、国権。これら二つに対抗する第三領域としての「市民社会の論理」を提示する。

 

■竹内啓「非合理性からの回復」1973.7.→大した論文ではないが、日常的合理性の可能性を捉えなおす、という関心に基づいている。全共闘革命から日常へ。

 

■■水尾比呂志「手仕事について」1973.9.→すばらしい。柳宗悦的な手仕事と自然の関係を回復する論理。アーレント的な仕事ではなく、自然の回復と工作人の結びつきがリアルに論じられる。これはマルクス主義の一つの可能性であり、当時の資本主義文明を批判する理念を提供しているように思われる。経済思想のすぐれた論文であり、これが美術史研究から生まれている、という点も興味深い。この人の本を参照すること。

 

■西部邁「虚構としての経済人」1973.10.→社会的規範を自発的に志向する性向を有した人間という理想を提起する。これは経済人とハーバーマス的な理性的存在の二つに対する対抗理念として提起されているのだが、後の保守主義の萌芽とみることができる。

 

■住谷一彦「バビロン捕囚」1973.10.→文化大革命をオルグした後の、一つの反省である。ウェーバーの古代ユダヤ教から、小市民的パーリア主知主義を読み込む。これは預言者類型とは異なる。またここでは、ナチズムに批判的だったオイケンを評価してもいる。

 

■本間長世「アメリカ思潮の座標軸」1973.11.60年代のラディカルから、新保守主義への転向をレポートする。貴重かつ詳細。

 

■中岡哲郎「情報の意味をめぐって」1973.12.→当時、情報の経済学や社会学が盛んに論じられている。本稿はその状況をまとめたもの。同じ情報が、異なった状況におかれた人に、異なった意味を与える、という多元性の認識。

 

■花崎皋平「ユートピア的世界への予感」1974.1.→アイヌ民族の平凡な日常の物語に、開発主義を批判する拠点を見出す。日常のなかのマイノリティが、マジョリティの開発主義に対置される。

 

■鶴見俊輔「国の中のもうひとつの国」1974.2.→ヤキ族訪問。理想の第三領域を少数民族の生活に求める。その民族の生活が思想的駆動因を与える。

 

■■正村公宏「現代企業の社会的位置」1974.2.→企業社会の再編原理をよく描いている。市民的自由の理想を実質化するためには、提案として、コーポラティズムの体制を批判しつつ、普遍主義的な保障に向かわなければならない。この提言は現代を見通している。

 

■竹内成明「実践と戯れ」1974.3.→大した論考ではないが、「作る」と「戯れる」を結びつけるというポスト近代の論理。資本主義の駆動因として、あそび、エロス→自由→解放という、論理が「近代を超える」とみなされる。

 

■レーヨンフーフド「エコン族の生態」1974.4.→近代経済学者の生態を、民俗学的に描いた問題作。古典的な位置を占める名論文。

 

■■宇井純「住民運動として自立へ」1974.11.10年間の反公害運動を総括した重要な論文。科学主義と政治の癒着に対抗する、自然の理念を掲げる住民運動の相克を丹念に精査する。

 

■阪上孝「日常性・主体・歴史」1974.12.→内容は雑駁だが問題提起は時代的。この時期、高畠著『日常の思想』筑摩書房が出ている。日常を否定する学生運動に対して、日常性に意味を見出そうとした1970年代の諸潮流がある。

 

■武藤一羊「根拠地と文化」1975.1.→支配構造の無数の亀裂というイメージで、対抗権力を構成するという企て。人民の自立した交通形態→左派の運動論のこのビジョンは、やがて、新興階級の文化へ向けてのコミュニケーション・メディアの創出を展望した、といえる。

 

■なだいなだ「正常と異常」1975.1.→イエ社会日本は、正常な社会を構成しつつ、差別をはらんでいる。これに対して、差別しない社会とは、普遍主義であり、異常なものを肯定する。1975.2.の「健康・この異常なるもの」も参照。また「「ふつう」と「みんな」と」1976.1.は、ヒューマニズムと平等主義には価値の多元性がないことを批判する。

 

■蓮見重彦「言葉の夢と批評」1975.2.→文学とは何か、を問うことは、それ自体、文学の制度化に意図せずして寄与してしまう。そのような問いを免れる批評のあり方を探る。制度化された文学の脱構築という課題。しかしこの課題が遂行されてしまうと、批判すべき文学の権威がなくなり、批評する側も、権力批判の快楽を味わうことができなくなる。

 

■菊池昌典「『収容所群島』考」1975.3.→社会主義の立場から、批判的な視線で評する。

 

■■富永茂樹「都市という病理」1975.5.→アングラの全能感。地下にもぐる自由→この中世的都市観を、19世紀の幻想文学に読み取る、という高度な芸だが、ポスト近代におけるラディカル左派の重要な政治的側面を描いている。

あわせて、富永茂樹「都市空間のための見取図」1976.8.→均質的な近代の都市空間からは、意味の凝集性や求心力が低下してしまう、ということ。この論文も趣旨は明快。ジェーン・ジェイコブズのニューヨーク都市論と同じ関心。猥雑性、マージナル、コミュニティという三つの要素が都市に必要。

 

■■D・ラミス「ドロップ・アウトその後」1975.5.→アメリカのカウンター・カルチャーからデカダンスへ、そしてクリエイティヴ・クラスが出てくるところを描く。ポスト産業社会の現象として。ダニエル・ベル論。とくに75頁以下を参照。

 

■多木浩二「消費の記号学」1975.6.→ボードリヤールの紹介をした小エッセイ。ボードリヤールはすでに1968年に『事物の体系』を書いている。

 

1975.7.→この号に、まとめて、ベトナム戦争に対する評価論文が三つ載る。が、あまり総括し切れていない印象。

 

■花崎皋平「リアリティの共有から」1975.8.→先の武藤一羊論文をいちいち引用して、その理念を具体的な運動のなかに見出していく。

 

■西川長夫「思想の秋」1975.11.→ボードレールとフローベルに関する論なのだが、社会主義ユートピアとは別の方向に、美的神秘主義による内面世界の構築にいたる道筋を描く。文学的思考と社会主義的思考は、ともに資本主義体制に批判的である点で共通するが、しかし相容れない。文学的な美的神秘主義を、コミュニタリアンの思想に包摂しようとしたのが、テイラーであったといえる。

 

■K・ジョージ「エスノセントリズムの問題」1975.11.18世紀に発見された「高貴な野蛮人」このモデルが、近代社会の専制に対する批判的なイメージを提供した。自然権の発見と高貴な野蛮人の発見の同時性。ちなみに現代においては、動物の権利における「野生の発見」と、ロスト近代における制度的再編の問題が、同時に生じている。

 

■小野二郎「自然への冠」1975.12.→ウィリアム・モリスの「自然」概念をよく読みこんでまとめている。自然美の発見から、新しい芸術創作活動のエネルギーを受け、人間生活を変革していくという論理。自然の超越的な価値による日常生活と資本主義制度の刷新というテーマ。ロスト近代的。

 

■坂本賢三「科学的認識と生活世界」1976.1.→第三領域としての「生活世界」。これを拠点に科学的世界がいかにして構成されるかを論じる。著者に『機械の現象学』という著作もある。この生活世界からすべてを再構成しようという現象学的な関心が、時代を映し出している。

 

■宇佐美圭司「芸術家の消滅」1976.2.→芸術家の個性によって作品を評価するのではなく、作品それ自体が内的な原因で想像力をかきたてる。そのような企てのマニフェスト。

 

■芹沢俊介「情況の浮力に抗するもの」1976.2.→左翼は、言葉ばかり過剰で、老衰、自壊していく、という時代の感覚をよく捉えている。

 

■川本三郎「同時代を生きる「気分」」1976.2.→政治的にはしらけているのだが、文芸批評で生きていることの哀しみと屈辱をよく描いている。時代の感覚をよく捉えている。

 

なおこの時期、いいだももの訳で、チョムスキーの『国家理由か、絶対自由か』が訳されている。

また差別論を扱った論考もいくつかある。

 

■松下圭一/宮崎義一「「市民的共和」の可能性」1976.5.→企業中心主義を批判する市民社会の理念は、福祉を企業ごとにまかせることを批判して、シビル・ミニマムの福祉を求めるもの。

 

■柳宗玄「父宗悦と朝鮮」および崔夏林「柳宗悦の韓国美術観」1976.7.→韓国併合に対して、日本人が批判するさいに、韓国の美意識を「友」の観点から同情して擁護するべきなのか、それとも韓国人を「他者」として発見すべきなのか。論争的なテーマ。

 

■■真木悠介「気流の鳴る音」1976.10.→いま読んでも新鮮で、その語り口から学ぶことは多い。カスタネダがインディオと出会う経験を素材に、コミューンの構想力を提示する。以下連載。

 

■鶴見和子「漂白と定住と」1976.10.→民俗学の視点から、漂泊者を位置づけ、「常民」の概念を拡張する。ポスト近代の視点。フリーターや非正規雇用者の問題とも深く関係する。

 

■■竹内芳郎「文化の理論のために」1976.11.→連載。野生の再発見、文化の悲惨がテーマ。とても面白い。「狂気としての文化の誕生」1977.1.は、異常・狂気が文化的創造につながることへの関心。総じて70年代は、イデオロギー闘争が言語論において代理闘争されている。「言語と想像力」(上)1977.6.は、文化の理論のために、の第二章。

 

■菊池昌典「社会主義の変質とは何か」1977.1.→国有化の幻想を告発。社会主義を労働者組織の民主的な意向によって運営するという左翼の方向性。同「虚構としての全人民国家」1977.8.→民主主義の段階としては、社会主義国は資本主義国よりもレベルが低い、という告発。ともに社会主義の理想と現実の緊張関係をよく描いている。また「中国「四人組」考」1977.12.→は、中国の一党独裁を批判して、日本のほうが社会主義の「先進性を獲得できる特権的位相にある」と評価している。社会主義のイデオロギー観点が明確。

 

■武藤一羊「〈保守対抗〉崩壊のあとに」1977.2.55年体制の崩壊について

 

■スウィージー「第三世界と社会主義の再生」1977.3.→先進国では、非国家レベルで社会主義が模索されるのに対して、第三世界に国家型社会主義を期待する論理が関心を呼んでいる。

 

■サルトル「一国社会主義批判」1977.8.→ブレジネフ体制を批判。大衆によって東欧の支配体制は一掃されねばならない、と提唱する。

 

■柄谷行人「マルクスの系譜額」1977.10.→まだ固めの抽象論に終わっているが、後の柄谷氏の活躍がここからはじまった。

 

■■熊沢誠「組織労働者の存在とエトス」1977.10.→明治以降の日本の労働者の変遷を追いながら、日本の労働運動の問題点を鋭く指摘する。重厚な論稿。労働者は伝統的な共同体から孤独化されたがゆえに、企業共同体に包摂されてしまった。そこでは資本主義に対抗的な、労働者社会の思想が生まれなかった、と指摘する。

 

■サミール・アミン「自力更生と新国際秩序」1977.12.→武藤一羊の解説付き。世界システムから離脱しなければ、そして社会主義を目指さなければ、後進国は従属を余儀なくされる、と論じる。記念碑的な論文であり、近年の反グローバリズム運動でも重要な思想的資源となっている。

 

■竹内成明「「委員会の論理」再考」1978.2.1930年代の、前衛集団=党の啓蒙主義的で集団主義的な主体性を、再評価する。だが同「集団的主体性と疎外」1978.4.は、中井正一のいう委員会の論理を批判して、大衆の潜勢的な主体性の中に批判的契機を読み取り、生けるラチオを読み取ろうとする。どうもこのあたりに、当時の左翼知識人の問題意識の基本構図がありそうだ。新しい文化生活を発見していく、という営みは、80年代になって、記号消費の場面に移り、ポスト近代化がすすんでいく。委員会の論理が通用しなくなっていく。

 

■河野健二「日本における共和主義の原型」1978.3.→中江兆民と福沢諭吉の相克について。

 

■村上陽一郎「科学理論の連続性と不連続性」1978.3.→クーンやファイヤアーベントについて紹介する。

 

■鎌田慧「自主生産を担う労働者たち」1978.6.→すぐれたルポ。コンピュータ化によって、工業生産から労働者がはじき出され、電子部品の生産に移っていくという時代。失業寸前の労働者たちが「自主生産」することに、労働の希望を抱くという視点がある。いまでは自主生産の理想は消え、ベーシック・インカムへの希望が語られる。この時代の変化に注目。

 

■加藤尚武「市民社会観の転回」1978.6.→スミスとヘーゲルという経済思想の問題を扱っている。賎民の問題を公共的に解決すべきとの視点から、ヘーゲルは「統治」を問題にし、ここから「国家」と「市民社会」の二つのシステムを要請するという論理を読み込む。

この論文に限らず、どうもこのころの知識人は、また海外の文献を手際よく紹介する、という仕方で議論している。

 

■■津村喬「三里塚が突き出した政治」1978.6.→これは重要。三里塚闘争を思想的に結晶化する。「土の権威」を基礎にして、自主管理、対抗的主体性、具体的、機動的な運動の論理、反開発主義・反管理主義、自然の豊かさ、闘争主体の平等性と思想的多様性、等々の価値が一体化している。こうした理念が、三里塚闘争を突き動かしている。

 

■宮川中民「エコロジー運動の展望と課題」1978.7.→当時のエコロジー運動を伝える。先駆的な紹介といえる。

 

■■■花崎皋平・武藤一羊共同執筆の論文「支配-被支配の前線」1978.8.→これはマニフェスト的な論文。1968年から10年がたち、当時の左派が置かれている状況を再定義する、という作業である。問題として中心に据えられるのは、「モダンでクリーンな工業社会」か、それとも「自力更生の大衆路線にもとづく共同社会」建設か、である。自主的な勉強会とか、生産の自主管理、あるいは、途上国の一国社会主義への希望、などが管理社会に対置される。この他、環境問題における「大地」の理念、三里塚問題における「根拠地」としての共同的社会関係、原発反対闘争における電気のない生活、などの経験を束ね、運動の挫折と自虐、孤立、分散といったことから、集団の新しい普遍的な精神が生まれてくる、と展望する。その基礎にあるのは、金芝河のいう「恨(ハン)」の思想。幸せから見捨てられても、何とか生き延びようとしている人間たちが、もつ感情。この、悪魔化する精神エネルギーをいかにして導くのか、という関心。